『脳の柔軟性』の基礎研究と臨床研究の学際的な統合
脳の中には1000億個ともいわれる神経細胞が存在しています。これらの神経細胞はネットワークを構築し、互いに情報伝達(コミュニケーション)をしています。神経細胞同士のつながり方や情報伝達の効率は、経験やさまざまな因子により変化します。このような脳の柔軟性は、環境の変化や刺激に適応するときの学習する脳のはたらきと考えられます。学習の仕組みは、分子・細胞レベルから動物の行動といったさまざまなレベルで研究が可能です。
近年の神経科学研究の進歩は、医療技術をさらに発展させるさまざまな知見を含んでいます。われわれの研究室は、今後の作業療法の発展のための基礎研究と臨床研究の学際的な統合が重要と考えて研究に取り組んでいます。
脳の個々の神経細胞から神経細胞への情報の伝わり方は固定されたものではなく、様々な要因により変化します。そのような脳の柔軟性のおかげで記憶・学習が成立するのみならず、脳損傷後の機能回復が可能となります。私たちの研究グループは、このような神経細胞間の情報伝達効率が変化する仕組みを分子レベルにまで掘り下げて調べています。
最近は、カンナビノイド系の働きを主に調べています。カンナビノイドは、大麻の主成分である Δ9-THCおよびその関連物質の総称で、脳内に存在する類似物質は内因性カンナビノイド(または脳内マリファナ)と呼ばれています。内因性カンナビノイド(2-AG)は、その専用の受容体(カンナビノイド受容体、CB1)を介してシナプス伝達を短期的・長期的に変化させるなどし、さまざまな脳機能や脳病態に関わっています。私たちは、カンナビノイド受容体(CB1)や内因性カンナビノイド合成酵素(DGLa)を欠損させたマウスの学習行動を解析し、脳内カンナビノイド系の記憶・学習機能における役割を明らかにしようとしています。
内因性カンナビノイド(2-AG)を介する逆行性シナプス伝達調節のメカニズム.シナプス後ニューロンの脱分極(Depolarization)は電位依存性Ca2+チャネルを活性化させ、Ca2+の流入をもたらし、ジアシルグリセロール(DG)の生成を誘導する.また、DGの生成は、I型代謝型グルタミン酸受容体(I-mGluR)やムスカリン性アセチルコリン受容体タイプ1やタイプ3(M1/M3)を介するホスホリパーゼCb(PLCb)の活性化によってももたらされる.DGはジアシルグリセロールリパーゼα(DGLa)により2-AGとなり、細胞外に放出される。2-AGはシナプス前終末のCB1受容体を活性化し、伝達物質の放出を抑制する。2-AGはシナプス前終末のモノアシルグリセロールリパーゼ(MGL)によりアラキドン酸(AA)に分解される.
運動学習の脳内神経基盤を明らかにするために動物行動実験を行っています。国内の作業療法の講座において動物行動実験を用いた基礎研究を行っているのはわれわれの研究室のみのようです。主に利用している「3レバー・オペラント課題」は、実験動物の学習行動を調べるために、関昌家先生(故人)の発案により当研究室で開発されました。この課題は3つのレバーを定められた順序かつ定められた時間内に押すことをラットまたはマウスに学習させるというユニークなものです。行動の要素を分析し段階づけて訓練された動物は驚いたことに10回程度のセッションで行動を獲得します。さらに素早い動作を要求して訓練を続けると、3つのレバーを1秒以内に押せるようになります。この学習行動には大脳皮質-大脳基底核-視床-大脳皮質の回路と大脳皮質-小脳-視床-大脳皮質の回路が重要な役割を担うと考えられます。遺伝子改変動物や疾患モデル動物を用いて3レバー・オペラント課題を調べることで、学習回路の神経基盤の仕組みを明らかにすることを目指しています。
ヒトの学習機能を評価するために、Probabilistic Selection Taskと予測に基づく運動制御課題の2つ実験課題を用いて、精神神経疾患患者の特性を調べ作業療法の神経生理学的指標として臨床に役立てることを目指しています。認知症の早期発見にも役立つことが期待できます。
ヒトは常に行動を選択しながら生活し、その結果を下に行動を学習しています。行動選択の学習には報酬をもたらす行動をより選択する学習(Go学習)と負の報酬(罰)をもたらす行動を避ける学習(NoGo学習)とがあり、どちらも大脳皮質-大脳基底核の回路およびドーパミン系が深く関わっています。Probabilistic Selection Task(PrS課題)は、大脳基底核系のGo学習とNoGo学習の行動選択のバランスを評価できるとされています(Frank MJら、Science 306: 1940-1943, 2004)。われわれは臨床でも簡便に調べられるようにPrS課題のiPadアプリケーションを小原医科産業株式会社と共同開発しました。日本人を対象に再現性と信頼性を確認し、現在はさまざまな精神神経疾患患者、対応する各年齢の健常児・者を対象に調査し、臨床データとPrS課題との関連を明らかにする研究を行っています。
PrS課題は正解が確率的な写真のペア(A:B=80:20,C:D=70:30,E:F=60:40)を最大300回(60×5)選択させ,高い確率の写真を学習させる.学習後,A~Fの組合せを60回(15×4)選択させ,AとBが新規なペア(C,D,E,F)で提示された時にAを選択する割合(Choose A)とBを選択しない割合(Avoid B),確率の差が近いペア(HC,High-Conflict)と離れたペア(LC,Low-Conflict)の競合反応時間を調べる.
大脳皮質-小脳-視床-大脳皮質(小脳系)の回路は、日常生活や動作をスムースに行うためにフィードバック制御とフィードフォワード制御の機能に大きな役割を果たしています。遅い簡単な運動は体性感覚や視覚のフィードバックによって制御可能です。しかし、フィードバック時間の遅れが影響するような速い運動を制御することは理論的に不可能になるため、予測情報を利用したフィードフォワード制御が必要となります。例えば剛速球が投げられて打とうとするとき、フィードバック情報を利用して球を打つことは間に合わないため、予測したタイミングや軌道で動作を開始することで可能となります。小脳のフィードフォワード制御は、運動のみならず運動を含まない言語学習、前頭葉機能関連課題、注意課題、図形課題などの高次脳機能に重要であることが明らかになってきており、簡便に評価できれば作業療法の評価や効果検証に有用と考えています。
予測に基づく運動制御課題は、対象の被験者が重りを自分で手にのせる、あるいは手にのせた重りを取り去るというシンプルな方法を用い、われわれは重り課題と呼んでいます。重りが負荷あるいは除去されるタイミングの予測を利用して、手に負荷がかかるあるいは取り去られる前の運動(先行反応)を評価します。
精密な運動制御を調べるために、バ-チャル環境下で手掌に一定の負荷を発生できる装置SPIDAR-G(Space Interface Device for Artificial Reality with Grip,東京工業大学作製)を用いて調べています(下図)。
SPIDAR-Gは任意のタイミングで任意の大きさの力をボ-ル(直径60mm)に負荷または脱負荷することができる。SPIDAR-Gのボ-ルの位置情報は液晶ディスプレイの下部にある四角のカーソルと連動して動き、ボ-ルを把持する手を垂直方向に動かすと手の位置情報がパソコンに出力・記録される。被験者がキーボードのEnterキ-を一度押すと把持したボ-ルに4.9N(500gの重さに相当)の力が下方向に負荷される。もう一度Enterキ-を押すとパソコン画面のボ-ルが黒い四角形から消え、それに伴って把持したボ-ルに加えられた力が除かれる。予測が働くとボールのキャッチのタイミングに先行して上向きに動くことが捉えられる。これは先行反応と呼び、小脳の機能を反映している。
動作や技術の習熟は加速度計などのセンシング技術を利用して評価することができます。理論上、同じ動作が繰り返されると、加速度波形は一定になります。動物は機械のように同じ動きを行えませんが、習熟が進むと波形は安定してきます。波形のパターンを相互相関係数(波形が同じであればr≒1に近似する)で評価すると、習熟の程度を客観的に評価することができます。このような動作の習熟過程において、脳においても比較的永続的な変化を伴うことが知られており、運動学習として捉えられます。われわれは加速度センサーやビデオ画像解析により簡便に臨床で評価する方法を研究しています。
ラットの背中に加速度センサーを装着し、3レバーオペラント課題においてレバー順序A→B→Cの順序でレバー押しを成功した時の加速度波形を重ね合わせた。a)はレバー時間間隔が1.0秒以内、b)が0.5秒以内の条件である。素早い動作を繰り返すことで動きがスムースになっていることが評価できる。
精神疾患患者のリハビリテーションに共通する目的は、①早期に再発の徴候を特定して介入する、②疾患の受容を高める、③薬物治療のアドヒアランスを強化する、④症状を伴う環境ストレスに対処する能力を強化する、⑤睡眠・覚醒リズムや毎日の日課の安定化を図る、⑥社会・家族・職業の役割に再従事する、⑦薬物・アルコール乱用を防止する、ことが挙げられます。これらの目的行動を獲得するためには、患者が自身の行動の修正を繰り返し経験することが前提となり、学習機能から評価することが重要と考えられます。統合失調症、気分障害、自閉症スペクトラム障害、認知症など多くの神経精神疾患において、大脳基底核系、小脳系の神経回路異常の存在が示唆され、寛解した状態にあっても認知機能の低下を認めるため、問題行動への対処能力の獲得を困難にしている可能性があります。作業療法ではさまざまな作業を治療手段として利用します。作業量などの臨床データを学習機能の観点から利用して、治療プログラムの計画やチームアプローチの工夫に役立てることを研究しています。
A:トルコ結びは毛糸を縦糸に結ぶ。1段は50結び。B:平織りは縦糸に緯糸を2回通す。C:トルコ結び1段と平織り2段を繰り返し、作品のマットが完成する。折れ線グラフは双極性障害患者が1回60分間の作業を行った際の毛糸を結んだ数(作業量)の推移である。再入院群(3年以内に再入院した患者)と適応群(5年以上再入院しなかった患者)を比較したところ、適応群に比べて再入院群の作業量の推移で有意に低かった。さらに,学習機能を示す2回目の作業量の増加は、適応群に比べて再入院群で有意に低かった。作業量の推移を学習機能の観点から評価することで予後の推測に役立つことは興味深い。
「サポートジャケット®Bb+PRO」は、当研究室がユーピーアール株式会社、山本寛斎事務所、株式会社ヴァーゴウェーブの産学共同で開発された全く新しいワークウエアです(平成28年9月)。第二の背骨(Bb+、バックボーンプラス)により、正しい姿勢を誘導することで、腰や身体への負担を軽減させます。
われわれのセンシング技術を利用した運動制御機能評価の研究成果とIoT(Internet of Things:モノのインターネット)技術を使った共同研究に発展しています。
(ユーピーアール株式会社より)
筋ストレッチング(以下、ストレッチ)の効果を超音波診断装置で調べ、より効果的なストレッチの方法を提案することを目指しています。ストレッチとは、硬くなった筋などの軟部組織を伸張することで、柔軟性を改善するために、治療者に動かしてもらう(他動的)、あるいは自分で筋を引き伸ばす(自動的)運動です。ストレッチの方法には、静的ストレッチと動的ストレッチがあり、さらに専門的には細分化されます。リハビリテーションの専門家は、これらを使い分けて様々な障害の回復に役立てています。障害者のリハビリテーション、スポーツでの怪我の予防など、ストレッチの重要性は一般に認められていますが、ストレッチの姿勢や方法がどのような効果や危険を伴うかは、解明されるに至っていません。近年の科学の進歩によって、ストレッチの時の筋肉の動きや形状の変化を超音波診断装置のエコー画像で非侵襲的に(危険なく)、リアルタイムにみることができるようになっています。さらに、エラストグラフィ機能を用いることで、これまで検者の主観に依存していた筋の柔らかさを定量的に評価することが可能になりました。私たちが用いる超音波診断装置でストレッチの効果を調べた研究は少なく、これまでに知られていなかったストレッチの効果のメカニズムや新しい方法の開発が期待できます。
肩の筋肉(小円筋)のエコー画像。右が通常のBモード画像。左がエラストグラフィ画像で、色が青っぽいほど硬く、赤いほど柔らかさを示す(黄色枠のAとBの比で評価する)。超音波診断装置は日立製作所 Noblusを用い、Real-time Tissue Elastographyで測定した。